「今日こそ本当だと思った」 彼が、額にかかった髪をそっと直してくれた。指先が耳を掠めた瞬間、思わず息を止めた。 EXITという居酒屋の看板の下、テーブルを往復する明かりが揺れた。午前0時30分。二人きりのテーブル。 彼が言った。 「外、ちょっと寒いけど…つきあわない?」 心臓はもう砂袋みたいだった。分厚いコート、丁寧に整えた言葉遣い、目に見えない“いい子”の皮が同時に私の体を押さえつけた。 > せめてほんの数秒、狂えばよかったのに。 けれど私は首を振った。 「あ、今日は…早く帰らないと。明日の朝早いの。」 嘘だった。朝の用事といえば、午後2時までに起きることだけだった。 --- ## 囁く勘定書 あの日に限って視線がぐるぐる回ったのはなぜだったのか。彼を掴みたかった。彼の首筋に隠れた産毛を撫でてみたかった。 でも口から出た言葉はいつも答えになっていなかった。私は 初恋の天使 という役に、長すぎるほどしがみついていた。 振り返れば、その役が意味したのはこんなことだった。 - キスはファーストデートではタブー - 「好き」という言葉は三回目のデート以降に限る - お酒は一本きり、それも半分残してこそ礼儀 自分で作った毒針が体の中に溜まり、誰かが近づくとその毒針を突き出していた。だからキスひとつできないまま23年が過ぎた。 --- ## ハヨンの足指と煙幕 ハヨン、27歳、大学院修士2年。彼女の日記をめくると、こう始まる。 >『5月3日、キャンパス図書館4階。ジェヒョクが声をかけてきた。腕にシリコン製のヘアバンドを2つ巻いていた日。彼は言った。「徹夜明けで一緒にラーメン食べない?」私は頷いた。心臓はもう破裂しそうだった。でも下校バスの中で、親指の爪をギュッと握りしめて「だめ」と何百回も唱えた。なぜなら、いい子は深夜2時に男の子とラーメンを食べちゃいけないから。』 その日を境に、ジェヒョクからの連絡は途絶えた。ある日、彼女は雪の中でラーメン1杯が冷めていくのを目にした。ジェヒョクと別の女の子が交わすフォークが瞬いた。その光景がハヨンの頭に自動リピート映像のように焼きついた。 >『私がいい子のふりをした罰なんだ、これは。』 --- ## ミンソの生贄 そしてミンソ、30歳、デザインエージェンシーのAE。彼女は怪談のように語り継がれる話を持っている。 3年前、同期たちと済州島旅行で―― 「マジでキスしたことないの?」 「うん。」 「えぇ~、なら今のうちに誰かとしちゃえば?」 罰ゲームだった。恋人でもない、知り合ったばかりの同期ヒョンウと2人きりで部屋に押し込まれた。 明かりが消えた瞬間、ミンソはベッドの足元にひざまずいて泣いた。 >『私はただ、本当にいい人でありたいの?それともいい子のふりをして、誰かの操り人形になりたいの?』 泣きながらも彼はヒョンウに謝った。そして40分後、独酌で酔った姿で友だちの前に再び現れた。笑顔で。目は充血していたけれど、誰も問わなかった。 --- ## 「いい子」のふりが生む輪 心理学者マーシャ・マクルスキーはこの欲望のブーメランを “善良拘禁” と呼ぶ。自分を過度に善良な枠に嵌めれば、相手が放つ性的・感情的シグナルはすべてスルーしなければならない。 しかし スルーしてもそれは消えない。 重さに変わって肩を押さえつけるだけだ。 私たちは怖がっている。仮面を外したら「ただの欲望の塊」でしかなくなるのではないか、と。 でも隠された真実は、その欲望こそが私たちを人間にしているということだ。 恋愛できないのではなく、恋愛をタブーにしてしまったのだ。 --- ## 誰が私の唇に鍵をかけたのか 「いい子」のふりは、いつの間にか友だち・家族・先生たちの無意識のひと言の共同制作だった。 - 「うちの娘は気が利くから、男の子に振り回されないのよ」 - 「恋愛は大学に入ってからゆっくり、いいとこ行けばいい人に出会えるよ」 そのひと言ひと言が 鍵の輪 を作った。その輪は、最終的に私自身が鍵を捨てるまで、唇を縛り続けた。 --- ## 蝕まれた口づけ キスは単なる身体接触じゃない。 相手の欲望と、自分の欲望と、そしてふたつがぶつかって生まれる 不安と歓喜の瞬間 を一度に飲み込む行為だ。 キスできなかった23年は、結局 「知らず知らずのうちに誰かに不安をプレゼントしちゃうかも」 という恐怖だった。 その恐怖は再び“いい子”に変装した。その仮面は相手に「私に触れたら、私は壊れてしまうかもしれない」という暗示を残した。 --- ## 最後に残る問い 今夜、ふと思い返す。 あの日、居酒屋EXITの前で「入ろう」と言っていたら、世界は崩壊しただろうか。 それとも私の中の 「いい子のふり」 が崩れ去っただけだっただろうか。 そして今この瞬間、あなたはどんないい子のフリをしているのか。 それを脱ぎ捨てたら、いったい誰が、どんな欲望が姿を現すのだろうか。
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