ろうそくが消える瞬間
三十一歳の誕生日、ジスはケーキの上にろうそくを一本だけ立てた。
これからも、ふたりで十分。
僕は今でもその一言を思い出す。火がついたろうそくが燃え尽きる3秒、その中に広がる結末のない問い。
「私たち、ふたりで十分だよね?」
火が消えると部屋が真っ暗になった。暗闇の中でジスはくすっと笑い、僕はその笑いを胸の奥深くへ突き刺した。
僕が隠した瞳の温度
「うん、ふたりで十分」と答えたけれど、僕は子どもが欲しかった。それを否定すればするほど、輪郭は鮮明になった。
通勤電車で、ベビーカーを押す男を見て想像した。もしあれが自分だったら。子どもは誰に似るだろう。ジスの鋭い顎のラインは僕から、瞳はジスから――。
そんな想像が浮かぶたび、頭の中の誰かが判を押した。
禁忌
ジスはその文字を体に刻んだ。ピルの服用時間をアラームで合わせ、太るのが怖くて毎日ランニングマシーンを回す。妊娠を防ぐということは、まだ性的に結ばれているということだった。
その事実に安堵しながら、同時にゾッとした。彼女の体は扉ではなかった。防壁だった。
ジスの日記、あるいは僕の妄想
会社で見つけたメモ用紙一枚。ジスが通っていた創作教室の授業記録だった。
講師:「最も怖い状況は?」
ジス:「誰かに完全に消耗されることです。赤ちゃんを産めば、私の人生は切り取られます」
講師:「どうして?」
ジス:「ママは消えるから。ジスという女性が」
僕はその一文をコピーしてスマホに保存した。眠る前に毎晩読んだ。ジスではなく、彼女の中のどこかの女が言ったのか。僕は妻を失うのが怖いのか。それとも、僕が欲しいのはジスではなく「子どもを産むジス」なのか。
僕たちが隠した体温
従兄の結婚式の日、式場の廊下で幼い甥を抱いていた。子どもはずっと泣き続け、僕はただただ焦った。
そのときジスが近づき、子どもを受け取った。子どもはすぐに泣き止んだ。ジスは赤ん坊の頭を撫でながら言った。
「本当に可愛いね。でも、いなくても大丈夫」
彼女の瞳は確かに子どもを見ていた。けれど彼女の視線は反対側にあった。子どもを産す勇気のない自分を、あるいはそれを産まざるを得ない世界を。
あの夜、初めてベッドの上で泣いた。ジスは僕の胸に凭れ、何かを言いかけてやめた。
「あなたも望んでるのは分かってる。でも、私は……私が先」
僕はその言葉の結末を継がなかった。「死ぬかもしれない」とか「消えてしまうかも」。恐れは同じだった。
なぜ僕たちは出産を怖れるのか
子どもは永遠の分量だ。たとえ君が死んで消えても、子どもは生き残る。だから出産は自分の死の反復だ。
僕たちはその反復を望まなかった。ジスは自分の永遠の痕跡が怖く、僕は彼女から生まれる永遠が怖かった。
だから僕たちは互いを愛しながら、同時に互いを結ぶ輪を断ち切った。子どもの代わりに育てたのは沈黙だった。
まだ燃えているろうそく
今日もジスはピルを飲み込んだ。アラームの音に彼女は小さな紙コップで水を一口飲んだ。
僕はそれを見たくなくてリビングでテレビをつけた。そうしたらジスが訊ねた。
「あなた、後で後悔するんでしょ?」
僕は答えなかった。テレビの画面の中の人たちは笑っていた。僕たちのいない未来がそこにあった。
ジスはピルケースを閉めながら言った。
「でも、今は……」
彼女は言葉を終わらせなかった。「今は」のあとに続く言葉はなかった。もしかしたらそれこそが正解だった。
僕たちの前に今も燃えている一本のろうそく。それを一緒に消すべきか、それとも誰かの火種を新たに灯すべきか。
愛する人が望まない未来を、どれだけ長く抱きしめて生きられるだろう?