1. ジス、コーヒーひと口で始まる出来事
午後四時、デパート地下。ジスは肘をつき、アイスアメリカーノをちびりと飲んだ。スマートフォンの画面に日差しがぽたぽた落ち、文字が滲むように揺れた。 対面に座った男——サークルで顔を合わせたことはあるが名前も知らない——が不意に口を開いた。
「君は何も言ってないのに、僕は今夜をもう君の隣で過ごしている。息が詰まりそうで、もう駄目になりそうだ。」
ジスは顔も上げず、視線も向けなかった。スプーンで氷をかき回す。 カチッ。 氷がガラスにぶつかる、冷たい一音。それだけだった。 男の指が震えた。ジスは瞼すら動かさなかったが、それで十分だった。
その夜、男はジスに13通のメッセージを送った。返事はなかった。
2. シウン、冷蔵庫の灯りの下に立つ罪人
新婚夫婦の下宿先。28歳のシウンは毎晩キッチンに立っていた。 大家の夫、ジュンヒョクは冷蔵庫の扉を開けるたびにシウンを盗み見ていた。
「シウンさん、灯りだけでも綺麗で……見ているだけで息が苦しくなります。」
その言葉は妻の前で洩れた。シウンは冷蔵庫を閉めながら、さらりと言った。
「あ、ツナ缶切れてる。」
翌日から冷蔵庫の中はツナ缶だらけになった。シウンは一度も「ありがとう」と言わなかった。 ジュンヒョクは彼女の部屋の前をうろつく時間が増えた。ドアノブを握っては離し、結局ベッドの端にへたり込み涙を呑んだ。 シウンは相変わらず沈黙していた。彼女の沈黙がジュンヒョクの欲望を鋭い毒へと変えていった。
3. ジス、20歳で書いた半分の日記
忘れることにした。それでも日記帳は残った。 ジスが20歳のとき、高校の屋上からちらりと見た後輩——ジュナ。
「先輩、タバコ一本貸して。」 「私、吸わない。」
ジュナはその一言で顔を真っ赤にした。それでも一か月、ジスの毛布の上に毎日ひとつずつ果物を置いた。みかん、りんご、そして最後の日にビニール袋に入った手紙一枚。
「私は何も欲しくありません。ただ……先輩がここにいてくれればいい。」
ジスはその手紙を一度も開かなかった。ビニール袋を破ってタバコに火をつけた紙くずにして灰にした。煙ひとすじに消えた告白。 ジュナは翌日、屋上の手すりによじ登った。幸い落ちなかったが、ジスは職員室に呼ばれて叱られた。 それでもジスは弁解ひとつしなかった。 私は何もしていない。
4. 空白を埋めるもの
「何も与えないから、相手は自分を捧げる。」
これは単なる無視ではない。無関心は、対価のない関係を可能にする。 「私はあなたを欲していない」という一言で、相手は「それでも私はあなたが欲しい」と自白する。 取引が成立しないから、身代金は無限に跳ね上がる。 相手は持てる全て——時間、お金、涙、そしてプライドまで——を注ぎ込むが、それでも空白は空白のままだ。
5. あなたへの最後の問いかけ
誰かを無言で立たせた瞬間、あなたは本当に何も考えていなかったのだろうか。
「私は何もしていない。」
と自分に言い聞かせながら、一瞬でも相手が崩れ落ちる音を待っていたのではないか。
ジスは今でも、コーヒーをひと口飲むたびにその音を思い出す。 氷がガラスにぶつかる、冷たい一音——それが男の崩れ落ちる声だった。