朝8時14分、顔も知らない香りを胸いっぱいに吸い込むと
ベッドシーツから見知らぬ香りがじんわり立ち昇った。 頭を動かすと枕の温度はすでに冷め切っている。 手のひらで掠めるリネンは冷たく、少し湿っている――誰かの髪が滲んだ跡だろう。 鏡へ向かう足元で、男物シャツのボタンがひとつ転がっていた。 目尻に滲んだマスカラ、唇の端でちぎれた薄紅の跡。 丁寧に消さねばならない証拠は他にもある。 化粧台の引き出しを開けると、小さなメモが一枚落ちた。
「ごめんね」と言いたければ、まず忘れなきゃ。
――2:47に書いた私
02:17、写真の中のあなたと私
スマホのギャラリーを探って消し損ねた写真が残っていた。 画角がぶれていて顔は霞んでいるけれど、首すじに刻まれた赤い痣ひとつだけは鮮やかだ。 フラッシュのせいか、光の滲みの中でも私は笑っている。 いや、笑っていた。 あの夜、ほとんど酒はなかった。 代わりに視線が触れた瞬間に電流が走り、私は意図的にスイッチを切った。 「忘れる覚悟」が先に立ち、肉体は後を追った。 写真の時計は02:17を指している。 その時刻がいつだったのか、記憶はない。 ただ朝になれば**「酔っていて覚えてないの」というセリフだけ用意されていた。 簡単な言い訳、でも実は最も正直な嘘**だった。
第一の沈黙:結婚3ヶ月前のジウン
「最初は目が合ったの。地下鉄の中で。」 ジウンは34歳、マーケティングディレクター。もうすぐ結婚する。 恋人とは3年目、式場も決まった。 それなのに彼女は金曜の夜、一枚の写真を完全削除した。 写真の中の男は10年ぶりに帰ってきた初恋の人。 彼は未だに彼女のことを「校舎裏で泣いてた子」と呼ぶ。 そのひと言で心臓が張り裂けそうに跳ねた。 誰にも見せず涙していた19歳の自分を覚えていてくれる人。 だからあの夜、彼女は自分自身を忘れることにした。 ベッドの上で目を閉じ、朝になれば**「お酒が回ってたみたい」**と呟いて忘れたふりをした。
第二の沈黙:師弟の間でスホ
「先生、僕は……」 言葉は最後まで続かなかった。 大学院生スホ、29歳。研究室の後輩との過ちだった。 師と弟の線を越えて、吐息だけで互いの名を呼んだ。 朝になると先輩研究者が写真を一枚送ってきた。
添付1枚。あなたが知らないうちに撮った初夜。
画角は狭く、照明は眩しい。 ふたりはお互いの目を見ていない。 ベッドの脇に置かれた眼鏡は割れていた。 翌日、誰かが意図的に実験データを破損させた。 先生は静かに彼を呼んで「君がミスしたんだね」と言った。 そのひと言でスホは自分の記憶を消した。 「あの夜はなかった」と自分に洗脳し、ミスを見逃す代償に沈黙を買った。
残されたもの、消されたもの
シーツをめくり上げると白い斑点が残る。 体から零れたのではなく、誰かの欲望が固まった跡だ。 爪で削ろうとしても染みは広がる。 リネンに染み込んだ香りは朝には消える。でも肌に残った香りはシャワーでも薄れない。
ベッドの下で見つけたもの
布団を捲ると、ベッドの下から小さなヘアバンドが転がり出てきた。 誰のものか覚えていない。 伸縮するシリコン製、ピンク色。 指でこすってみるとまだ体温のようにぬるりと温かい。 あなたはそれを握りしめて目を閉じる。 朝陽がベッドを半分に裂いていく。 それでも誰も知らない。 いや、誰も知らないふりをしている。
最後の問い
この瞬間、ベッドに横たわるあなたが本当に消したのは記憶なのか、 それとも自分自身を消す方法なのか。 失くした何かは、ベッドの下の埃の中にそのまま取り残されていないだろうか。