「今日はダメ」――先に語ったのは瞳だった
「今日はダメ。」 いや、今日こそ逢える日だ。 僕は彼女の首筋に手を置いた。黒いニットの襟から漂う香水の匂い、半年ぶりに嗅ぐその香りだった。 彼女は顔を背けた。瞳が震えた。いや、震えているふりをした。僕は気づいていた。ずっと気づいていた。8年間――。
彼女の最初の夫だった僕
僕たちは2016年3月、延熙洞のサムギョプサル屋で初めて出逢った。彼女は30歳、僕は33歳だった。 彼女が先に話しかけてきた。 「ここに来る途中で道に迷っちゃって。」 嘘だった。後になって知った。彼女は僕が常連の店を一週間前から毎日見張っていた。座るテーブルすら決めて。 そのときはまだ、彼女をただの客だと思っていた。 最初のキスはその夜、車の中で。彼女が先に唇を重ねた。 結婚は2017年1月だった。彼女は涙を浮かべて言った。 「誰も信じなかったのに、あなただけは違うって。」 あの日から僕は彼女を信じなかった。一度も。でも信じないまま惹かれた。 彼女が嘘をつくたび、息づかいが変わった。声が低くなり、瞳が揺れた。その揺らぎの奥に僕の欲望を見た。 僕を騙す彼女を見守ること。それが快感だった。
彼女の二番目の夫にも同じ香水
2022年12月。彼女はすでに別の男と結婚していた。 僕は知っていた。いや、僕だけが知っていた。彼女の新しい夫は知らない。彼女も僕に知らん顔をしていた。 「私たち、やり直しましょう。」 彼女が僕を訪ねてきたとき、僕はもう知っていた。新しい夫も同じ香水を嗅ぐことになる。同じ嘘を聞くことになる。 あの日も彼女は黒いニットを着ていた。首筋に手を置くと、彼女は震えた。同じ震えだった。
なぜ僕はまた飛び込んだのか。いや、僕は決して飛び込んでいない。僕はただの観察者だ。彼女が誰かを騙すのを見守る観察者にすぎない。
真実を知った瞬間の快感
「あなた、知ってたんでしょう?」 2023年4月。彼女の二番目の夫が僕を訪ねてきた。キム・ヒョンス。35歳の銀行員。 彼は言った。 「彼女があなたと出ていったと思ってた。でも違うんですね。」 僕は答えなかった。 彼は続けた。 「香水の匂いが。うちにもあったんです。同じ香りでした。」 僕は笑った。いや、泣いた。僕たちは二人とも。 彼女が去ったとき、僕たちはお互いを知った。僕たちは同じ女に騙されていた。でも騙されているとは思わなかった。 僕たちは彼女を騙していた。彼女が僕たちを騙している間、僕たちは彼女が誰かを騙すのを見ていた。それが僕たちの欲望だった。
なぜ僕たちは嘘に惹かれるのか
心理学者は言う。嘘を聞く方が面白いと。真実は退屈だ。嘘は緊張感を与える。 でも僕たちの場合は違った。僕たちは嘘を知りながら聞きたかった。 嘘の隙間を抉ること。その隙間に自分の欲望を確かめること。それが僕たちの快感だった。 彼女は同じ香水をつける。同じ嘘をつく。同じ震えを見せる。 でも僕たちは同じように引き寄せられる。いや、引き寄せられるふりをする。 僕たちは彼女が誰かを騙すのを見ながら自分の欲望を確かめる。それが僕たちのタブーだ。 僕たちは彼女の嘘を信じたくないのに、信じたい。信じるふりをしながら信じたい。
今、誰かの嘘を知っている君へ
今夜、最後に送ったメッセージをもう一度読んでみて。 「今、家にいるよ。」 それが本当だろうか?いや、君はもう知っている。 君はその嘘を知りながら見逃したい。嘘の隙間を抉りながら、それをふさぎたい。 だから僕は訊く。 今、誰かの嘘を知りながら聞いているか? そして、なぜ君はその嘘を最後まで聞きたいのか?